NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会 横浜ロシア語センター

『幼年時代』

Детство (1852)
L. N.トルストイ Л. Н. Толстой (1828-1910)
(2021年8月号掲載)

L. N.トルストイ(20歳頃)
L. N.トルストイ(20歳頃)

 『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などの作品で有名なL. N.トルストイの自伝的作品です。満10歳なったばかりの主人公「私」の心の成長が精緻な筆致で描き出されています。

 「私」は裕福な地主貴族の父、やさしい母のもとで何不自由なく幸福に暮らしています。「私」の心は純粋で無垢そのものですが、同時に自尊心と自意識が芽ばえつつあります。物語の冒頭、住み込みの家庭教師カルル・イワーヌィチがハエたたきで落としたハエが、一緒にいた兄のヴォロージャの上にではなく「私」の頭上に落ちてくるシーンが描かれます。兄ではなく「私」の上にハエを落とすのは、偶然ではなく家庭教師カルルが年少の「私」を軽んじたためではないか、と「私」は考えます。

 また、身分の上下についてもおぼろげながら自覚が芽ばえてきます。家庭教師のカルルは「大人」で「先生」ではあるけれど「貧しい」「雇われ人」でもあり、周囲の大人たちから軽んじられることもあると観察した「私」は、カルルに対して時に嫌悪やいら立ちの感情がわきあがることがあります。しかしすぐさま善良な家庭教師に悪意を抱いた自分を恥じ、はげしい後悔の念にかられます。

 成長するにつれ、純粋で単純な子供の世界にはいられなくなった「私」ですが、自分にとって本当に価値あるもの、大切なものを自覚的に認識できるようにもなっていきます。物語の終盤では「私」の母が苦しんだ末に亡くなります。母を看取ったのはナターリヤ・サーヴィシナという老家政婦で、母が生まれた時から乳母として仕え、嫁入りの時も一緒にトルストイ家に来て、長年働いてきた女性です。無学で信仰心の篤い彼女は、母を亡くして悲しむ「私」を慰めます。この物語は、その老家政婦ナターリヤが亡くなる場面で終わりますが、正直に無欲に生き、死を恐れず未練なく死んだ彼女の姿は、「私」に深い感銘を与えます。

 今回ご紹介した『幼年時代 Детство (1852)』は、続編『少年時代 Отрочество (1854)』『青年時代 Юность (1857)』と共にトルストイの自伝三部作と呼ばれています。ただし作者トルストイの母親は実際には彼が2歳の時に、父親は9歳の時に亡くなっていますので、正確には「自伝」ではなく「自伝的小説」と言うべきでしょう。

(文:小林 淳子)

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