NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会 横浜ロシア語センター

当センターについて

横浜ロシア語センターの歴史

 1990年には植木氏が理事長に就任、1990年代前半はペレストロイカに対する期待などから生徒数は30~40人台と急増したが、ソ連邦の崩壊とその後の混乱の影響を受け96~97年台には再び20人台に急落、財政は2年間の家賃未納を含め当時の県連年間予算額200万円の1.5倍に達する300万円近い赤字を抱えるに至った。そのため、折角入手した教室の半分を他団体に貸し出さざるを得なくなった。1993年3月、賃貸に出した半分は2003年末にやっとその大部分を回復することが出来た。

 96年10月の85期は生徒数28名であったが、1997年柴田元理事長の復帰、就任後、会員、生徒の協力でポスターを市内全域165箇所に貼り出したり、大型の看板を立てたり、チラシ、電話帳、NHKテキストなどで宣伝したり努力を重ねた結果、生徒数は50名前後で安定するようになって来た。

 1クラスから始まった教室も、100期目には入門3クラス、初級2クラス、中級2クラス、上級2クラス、原書購読1クラス、通訳・翻訳1クラス、会話2クラス、計13クラス50名と、個人レッスン10名計60名を数えるようになった。

 このほか1998年に始まった日本語教室には5~10人程度のロシア語圏出身者が学んでいる。

 このようにして100期現在、語学教室の生徒は総数約70名となった。
 しかし、これとても、800万を超す神奈川県の人口から見れば、まさに「九牛の一毛」でしかない。

 1975年県連は県内初のロシア語能力検定試験を実施、初級、中級あわせて7名が受験した。
 検定試験は1983年まで受験者を受け付けたが、希望者が少ないためその後は中断していた。2002年からはこのロシア語能力検定試験も再開し、それぞれ50名前後の方が受験されている。2007年には受験者は60名、2008年には83名となった。

 教室は神奈川県下での活動のみならず、全国のロシア語普及活動にも協力してきた。
 1975年には県連は視覚障害者のロシア語学習を支援するためバイカル号の船長に依頼して日本初の点字ロシア語辞典を取り寄せ、日本点字図書館に寄贈した。船上で行われた贈呈式には県、市、福祉関係など各界の人々が参加した。
 2000年初頭には、NHKテレビのロシア語講座に、当教室のトマルキン先生をはじめエレーナさん、ラリーサさんなど当協会関係者が出演した他、協会提供の民族衣装などが、テキストの表紙を飾った。当協会バラライカ・ドムラ教室、マトリョーシカ絵付け教室、サンボ教室も上記テレビ番組に登場 し、活躍した。

 このように、当教室では、生徒数が200人近かった時もあり、20人に満たなかった事もあり、内外の政治、経済、社会情勢などにより、山あり、谷ありで、生徒が多ければ会場確保、管理に苦労し、少なければ財政難で家賃を2年分も滞納するなど、本当に講師、役員、事務局関係者の苦労は筆舌に尽くせませんでした。時には内部から「やめよう」という声さえあったが、熱心な生徒、講師、関係者の物心両面にわたるご支援で、創立以来、唯の一度も休むことなく続ける事が出来たのである。


1990年ヨールカ祭

1990年ヨールカ祭

日本語教室生徒

2000年頃のロシア語会話クラス生徒